当たり判定ゼロ

シューティング成分を多めに配合したゲームテキストサイトです

SEKIROが言うには「続けると、きっといいことがある」

f:id:rikzen:20190503115728j:plain

SEKIRO、ようやく4週が終わって5週目に取り掛かっているところです。
ゲームとしてやるべきかやらぬべきかと言えば、それはやるべきだし、お金がないならば今すぐアルバイトでもするか、働きたくないならばブックオフにゲームかCDでも売っぱらって買うべきと言いたい。これは自分自身の「内面における体験」を買うゲームなのだから、見るのではなく自分でやる必要があるわけっすよ。ボヤボヤしているとお前の人生の残り時間なくなってしまうぜ、ムーブ!今すぐ動け!と言ってしまえばそれだけの話なのですが、はて、ゲームゲームと言いますが、フロムのゲームは10回、20回、100回と失敗を重ねて、敵の動きと対処を学習し、乗り越えていくゲームで、むしろ修行でもしているかのような感覚。これは果たしてゲームなのか。

ゲームという定義に関しては、フォン・ノイマンというおじさんが、ザクッとまとめてこんなことを言っています。
「チェスはゲームではなく、明確に定義された計算の一形式なんです。実際に答えを出すことはできないかもしれないが、理論的には正しい『手』が存在するはずです。それに対して本当のゲームはというと、全然違います。現実の生活は、はったりやごまかしの駆け引きからなっています。それこそが私の理論で言うゲームなのです」
まぁいかにもゲーム理論考えたおっさんらしい言葉ですね。この言葉どおりだとマリオですらゲームではなくなってしまう。

現代でゲームという言葉が用いられる慣用的な意味からすると「SEKIROはゲームじゃない」とか言い出したら何言ってんだこいつという話なんですけど、狭義な話としてノイマンの定義に従うのならば、最適解のあるSEKIROもまたゲームではないのでしょう。
じゃあSEKIROはゲームでないとするならば何なのか。

SEKIROは難しいゲームだと言われますが、その難しさを一言にまとめると「正確な動作をミスなく繰り返し続けなければならない」という点に集約されるかと思います。その本質は音ゲーとかSTGに通ずるものがあります。しかしこれってどこかで見たことないか…。そう、製造業の工場ですよ。工場。緻密な加工をひたすらミスなく続ける職人たちの姿ですよ。これこそがSEKIROです。

かつて日本は「技術立国」と呼ばれ、製造業で飯を食っていました。金属の切粉が空気に混じった鉄臭い工場で、熟練工の男たちが汎用旋盤やフライス盤を駆使し、金属に穴を開け、切り、削り、曲げ、時には溶接し、部品や金型を作っていました。その精度は正確にして繊細。
男たちは最初から高精度かつ正確な加工ができたわけではありません。はじめ、アメリカにおける「メイドインジャパン」と言えば「安かろう悪かろう」の代名詞でした。しかし、それでも繰り返し繰り返し長く作り続けたことにより、技術力は向上し、どんな難度の高い作業でも毎回正確に行える実力を身につけ、「メイドインジャパン」は「高品質」へと意味を変えたのです。
つまり、技術力は継続からしか得られない。
音楽にしても、最初は楽譜も読めなかった子どもが何年も続けるうちに、遂には2時間のオーケストラの楽譜を一度も間違えずに演奏できるようになる。1回の成功の前には、1万回の失敗がある。しかし、1回成功してしまうと、そこからの失敗確率はグンと落ちる。これが技術ですよね。

この学習の過程をグーッと圧縮して煎じ詰めるとSEKIROになります。
2時間ほど同じボスと戦って、回数も覚えていないほど「死」の画面を眺め続けて「難しすぎる。これ一生勝てないんじゃ…」と思っても、繰り返し繰り返しプレイすることで技術が身につき、正確な作業を行えるようになることで撃破できる。なんということだ、葦名城は工場で、狼は汎用旋盤の扱いに長けた職人だった…。

そうなると、これまで戦場の敵として戦っていた相手が、全て工場の部材として立ち上がってくるぞ。
最初は新米工員として工場に入ってきた狼。初めは荒い精度の加工にも手間取り、少しずつ慣れて腕に覚えが出てきたところで、新規受注した大型案件で心が折られる。それでも諦めずに難度の高い加工に挑戦し続けた結果、今ではミクロン単位の加工も正確にこなす熟練技術者だ。

技術力は継続からしか生まれない。
続けると、きっといいことがある。

f:id:rikzen:20190503105847j:plain

ところで、SEKIROにはその評価を確たるものとした良ボス「葦名弦一郎」がいます。彼こそはSEKIROのすべてを体現した存在であると言えましょう。

こんなことが心に思い当たるところはないでしょうか。MIDIをやろうと思ってSC88Proを買ったけれど、色々音を出してみた時点で「自分には才能がない」と終わってしまった。憧れの絵師のようになりたいとペンタブを買ったが描き心地を試しただけで終わってしまった。つまり、どのような道にせよ継続は容易ではないし、人はすぐに諦めてしまうということです。

葦名弦一郎は、そのような技術の向上を前に道を断念した人間の思いを具現化した怨念。
弦一郎の素晴らしいところは、まず第一に、意気揚々と辿り着いたプレイヤーの心を必ず叩き折って、どこかに諦めの気持ちを生み出してくれること。押し入れにしまってあるSC88Pro。カップラーメンを作る置き場になってしまったペンタブ。そのすべてが弦一郎に敗れて、続けることをあきらめてしまった夢の残骸です。一言で「成功の鍵は続けることだ」なんて言っても、その継続が難しいんだってばよ。継続は決して口で言うほど簡単なものではないんですよね。

ところが、折れそうになる心を押し留め、何度も何度も挑戦し、弦一郎を倒したとき、世界が転換します。
2週目にもなるとあれだけ強かった弦一郎の動きが手に取るように見え、繰り出された刀は間違えずに弾くことができ、下段はジャンプで躱し、突きは当たり前のように見切ることができる。3段階目の雷は相変わらずボーナス行動。弦一郎の素晴らしいところの2つ目は、それを乗り越えた者にとっては、弦一郎ではなく、「弦ちゃん」と愛されるキャラクターに変わりうる点です。

それが示すことは、あの凶悪な「葦名弦一郎」が「弦ちゃん」になる瞬間、確かにお前は継続という壁を乗り越えたのだという祝福が与えられるのだということ。それはすなわち、ハードウェア音源やペンタブを使わずにしまってしまった過去とは違った結末を導くことができたに等しい。よくやった、お前は諦めずに練習し続けたことにより確かな技術力を手にすることができたのだ。そしてそれは決して失われない。
「どうだ…お前の中のSC88proは切ることができたか…?」と倒したときに言ってほしいくらいですよ。

技術力は継続からしか生まれない。
続けると、きっといいことがある。

ただし、続けるに足る十分な時間が人生に残っているならば。

「子供には無限の可能性がある」というのは残酷な言葉で、裏返せば大人は過ぎていった時間とともに可能性を失っていったということ。あのとき諦めてしまったものに、あのときに戻って再び取り組むことはもうできない。
みんな今更やり直せない何かを心の何処かに引っ掛けながら生きてるし、何かを諦めてしまった大人にできることは、挫折した過去を乗り越える代償行為として葦名弦一郎を踏みにじり続けることくらいなもんですよ(ラスボス戦で100回くらいやり直しながら)。

まだ間に合うやつは急げよ。楽器でも良い、絵でも良い。
とにかく諦めないで続けて、そして葦名弦一郎を倒すんだ。