生きるということは楽しみの芽を摘み続けるということ
「自分は生きている間にあと何本のゲームを遊ぶことができるだろうか」って思うことありません?
1日平均2時間とすると年間730時間。物心がついて多少物事を覚えておける10歳から頭のしっかりしている70歳までゲームを遊べるとして60年間。すなわち730時間×60年=43800時間程度が人生をゲームにぶつけて過ごすことができる時間です。
長く遊ぶゲーム、短く切り上げるゲーム、色々あるでしょうが1本平均30時間遊ぶとすると43800時間を30時間で割って、1460本。これが1日平均2時間遊ぶ人が、生涯遊べるゲームの本数です。1日平均2時間以上遊べる人はもう少し多くなるでしょうし、平均2時間遊ぶ時間を作れない人はもっと少なくなると見積もると良いでしょう。
一生で遊べるソフトは1460本。いま10歳の人が残り1460本遊べるのだから、20歳の人は残り1217本、30歳の人は残り974本、40歳の人は残り731本、50歳の人は残り488本、60歳の人は残り245本となる計算。今回の人生では、みんなはあと何本のゲームを楽しめるかな??
というかこう考えると結構遊べるゲームの本数多くないですか。
人類文明でコンピューターゲーム自体が娯楽となってから短いんで今のところは大丈夫ですけど、これが40年も50年も経ってくると「楽しみの既視感」みたいなのが出てくるんじゃないかなと思ったりもするわけで。
つまり、例えば旅行が好きで人生の早いうちに日本の全都道府県を旅し終わってしまってたりすると、「次はどこに行こうかな?」の問に対する答えが一捻り必要になるんですよね。もう全部行き尽くしてしまった。観光名所をまた見に行ってもつまらない。だから「~に行って、そこで~しよう」みたいな企画が自分の中で必要になる。でも、それもいつか終わってしまったら?
「行ったことのないところに行く楽しみ」は行ったところがないから初めて体験できるので、「行く」という行為は「行く」という楽しみを殺し続ける自傷行為でもあります。同様に、色んな遊びを経験すれば経験するほど「遊ぶ」という楽しみはじわりじわりと殺され続けていくことになるでしょう。
老人になったときの気持ちはまだわからないけど、大人になると子どもみたいにイチイチ物事を楽しめなくなるのはわかる。親戚の小さい子どもにせがまれてゲームやってると、画面のキャラクターが動くだけで子どもは喜んだりしてめっちゃ感情を表すもんね。プレイしている大人は真顔なのに。これが経験の差から生まれる不幸ですよ。大人の脳は、ゲームのアクション一つ一つに喜びや楽しみを感じることはもうない。
生きるということは経験をするということで、経験は人を不感症にし、楽しみの芽を摘み続けます。
時間は戻らない。ファイアーエムブレムを初めて遊んだ記憶は消えない。お前は再びその楽しみを得ることはできない。
そう考えると、リメイクってどうなのよ?内容知ってるのに楽しめるの?ってところはあるんですけど、バイオRE2良かったですね。
オリジナルのバイオハザード2が発売されたのが1998年なので、21年も経ってるわけです。21年……マジか……ゾンビよりそっちのが怖いわってところありますけど、ともかくリメイクなわけです。
バイオ2といえば、タイトル画面での「バィオハザァァァド トゥゥゥゥ!!」のタイトルコールをテレビの前で一緒にシャウトしてから遊ぶゲームという認識でしたが、バイオRE2のタイトル画面はただラクーンシティを遠景で写しているだけ。
署内のマップ、ルート、設備の配置、ギミックなんかもすべて変わっており、石像を肩で押して赤い宝石を手にする必要もない、木箱を押して足場を作る必要もない。なのにトイレはある。リッカーなんてショットガン適当に撃ってりゃなんとかなるものではないくらい凶悪だし、木板で窓を塞がなきゃゾンビがどんどん入ってくるし、タイラントは表から出てきて警察署をノシノシ我が物顔で歩いている。おまけにクレアの笑顔が口角上げて笑うハリウッド女優スマイルになってる。こ、こんなゲームだったか…?
だいたい、ゲームシステムからも例のラジコン操作からバイオ4以来のTPSに変わってること含め、これ別ゲーですよね。
FFがケアルとかの名前だけ引き継いで別ゲーでシリーズになっているように、バイオRE2も警察署やストーリーなんかの舞台装置だけ引き継いで別のゲーム作ったという感覚のほうが近い。かろうじて「雰囲気がバイオ2っぽい」という概念にバイオ2を名乗る由来は繋ぎ止められている。
あの象徴的なタイトルコールをなくしたことで、それを予め教えてくれてたんですよね。これはバイオRE2であって、君たちが知っているバィオハザァァァド トゥゥゥゥ!!とは違うのだと。
だからこそ、それが良かった。「あ~この石像あったな~。懐かしい。目線合わせればいいんだよな」「そうそう、ここのハシゴ落とさないと2階に上がれないんだよな。どんな警察署だよ」みたいな感傷に浸るだけのゲームにしてくれなくて本当に良かった。新しい経験と向かい合えるから。既知であるという悲しみに囚われずにすむから。
最近知ったんですけど、年取ると刺激を求めるようになるんですよね。逆かと思ってた。
代わり映えのない日常や見慣れた景色、数え切れないほど乗った電車、食べなくとも味が想像できる食事。失敗することは怖くない、起きたときのリカバーの方法は引き出しに入っている。成功することは楽しくない、同じ楽しみは何度か得られたけど次もきっと似たようなものだろう。
そうした灰色の生活からは「俺が!俺が生きている実感をくれえええ!!」っていうバトル漫画の敵で出てくる究極の人工生命体みたいな感情が自然と生まれてくるんですね。これが、感情……。
マズローの欲求段階説だって、要は人間がその時点で足りないと認識するところを欲しがっているだけじゃねーかという気もするし、たぶん人間の体と精神というものは、常に足りない部分はどこかと探し続けるウィルスに支配されていて、経験が蓄積されて刺激に不感症になってしまうとモルヒネやりすぎて麻酔が効かなくなった患者みたいに更にキツい刺激が必要になっちゃうんじゃないですかね。まるで不足というものに対して追い立てられている奴隷だ。
そういうこともあって、体が刺激を獲得するために最近あれだけ苦手だったわさびを食べられるようになったんですけど、これもわさびの刺激の経験に慣れてしまうと少しのわさびじゃ満足できなくてやがて大量投与とかやってしまうに違いない。大量投与までやってしまったらその先一体どうすればいいのですか。練りからしをボトルからキメるなどの豪傑的行為に手を染めるしかないのか?
経験が怖い。経験が要求することはただ一つ「今まで経験したことがないことを経験すること」。
そうして経験は人間に命じて領土を拡大していくわけです。そしてついに人間は経験という寄生虫に寄生された宿主だという真実が明らかになるのです。みなさんの精神は大丈夫ですか?心が経験に汚染されて何事も楽しめなくなっていたりしませんか?
FF5に「すべてをしるもの」ってやつが出てくるんですけど、魔法攻撃しかしてこないあいつにバーサクかけると打撃攻撃めっちゃ痛くて、むしろ普通に戦うより強くなるんですよね。あれは怒りですよ。すべてを知ってしまったことに対する怒りですよ。娯楽にも面白さの普遍性のある本質みたいなのがあるから、それがわかってしまうと、すべてをしるものが新しいゲーム遊んでもどこかで体験した既視感みたいなのが付きまとって全然楽しめないわけですよ。彼の心の中は月の地上みたいな殺風景で単色の世界が広がっていて、すべてを知ったことに対する後悔しかない。そこにバーサクなんてかけられたものだから、水で一杯だったコップに石を入れたようなもので「こいつ!このっ!こいつめっ!」って気持ちが心の奥底から溢れてきてしまったわけですよ。わかる、その気持ちわかるよ。そうだよな、すべてを知ってもいいことなんて何もないよな。