当たり判定ゼロ

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遊べ、時代と寝るゲームを

イエーイ!みんな~死について考えてる~?? 死、怖いですよね。
 
死とは無であったとしても、意識が消える瞬間はどう感じるのか
意識が消えるということは、自分の死を認識することはできないのか
記憶とは夢のようなものだったとして、思い出すことができないとはどういう状態なのか
 
考えるだけで怖い。怖すぎるでしょ。
布団に入って電気を消したときって人の心に隙ができやすく、メメントモる頻度が高くなりがちで危険。じっと目を瞑って死ぬ瞬間の意識のことを考えてしまい、背中がゾワっとする事象から人は逃げられない。
とはいえ、死はすべての人間に避けられないさだめ。我々は大いなる眠りに向かって歩き続ける生の奴隷。じゃけん、死ぬときのことを考えても仕方がないので、どう生きるかを考えましょうね~とは色んなところで聞くような話ではあります。
 
しかし思うんですけど、どう生きたかをストックしていくには「記憶」って脆弱すぎるんですよね。
 
今年のGW何やってました?って聞かれても、「何って……息?」みたいな小学生みたいな答えになっちゃうし、長く生きれば生きるほど昔の記憶は曖昧になっていき、それこそ小学生の頃毎日放課後をどう過ごしてたか全然覚えてない。正直、白衣の美人ドクターに「お前には小学生の頃なんてない。お前がうろ覚えだと思っていた小学生の記憶は、我々の組織がお前に1年前に植え付けたものだ!」と言われても「そうかも…」ってなっちゃう。
そういう意味では、日常の強度が弱い今のことを、身の回りの人が全員死んで孤独に老人ホームに入っている頃になったとき思い出せるかというと自信がない。
「なんか色々あったけど、長生きしたなぁ…。そういえば、色々って……何だっけ」となりそう。今の自分が、小学生の自分についてリアリティを持って思い出せないように。
 
人生の満足に必要なのは、強度のある記憶ですよ。
 
そうは言っても、強度のある記憶なんてどうすれば手に入るのか。
一つのやり方として、尖ったガラスの破片を使って「11月3日今日は焼肉を食べた」とかの言葉を腕に刻んでいくなどの方法は考えられるんだけど、そうじゃない。
身体を痛めつけるのがダメなのではなく、記憶を外部保存装置に頼っているのがダメ。外部に出さないと覚えていられないような記憶は、死を前にした走馬灯にも出てきやしない。記憶はアナログではなく電気信号として身体の芯に保全されていてこそのリアリティ。
 
そこで参考にしたいのが彼。
「ハァハァ、俺に、俺に生きている実感をくれええええ!」と叫びながら禁断のブースト注射を打ってイッた目で主人公と対峙する敵(高い確率で若い兄ちゃん)。
彼は、主人公のように仲間に恵まれたわけでも、1000年に一度の才能を持って生まれたわけでも、劇的な運を持って生まれたわけでもないけれど、「記憶の強度」を主体的に獲得する生き方を選択した点で偉さがある。
 
彼はその戦闘において死亡フラグさえ立てなければ、その後メチャメチャいい人生を過ごすと思う。そんじょそこらの連中とは過ごした思い出の密度が違いますよ。老後とかかなり強い。老人ホームの思い出バトルにおいても敵はなく、無双。
老いた彼は、DNAに保全された記憶に触れていく作業をするだけで「いい人生送れたなぁ」となり、布団に入っても死は怖くない。不定な未来を吹き飛ばすのは重厚な過去。
 
生きている実感君から我々が学ぶことがあるとすれば「刺激は主体的に獲得しなければならない」ということ。
それを具体的に生活に落とし込むならば「自分の状態を動かし続ける」ことに尽きるんじゃないですかね。
深海の生き物のように消耗するエネルギーを抑えるために一日中動かない生活をしていては、かつて新しく知るものすべてが刺激的に思えた貴方の素晴らしい触覚も、いつかは朽ちてあらゆる反応を失ってしまうことでしょう。
 
matakimikaの人が、「オタクをやるからにはちゃんと時代と寝るべき」と10年くらい前に言ってた気がするのを未だに覚えてるんですけど、時代というのは常に動き続けるものであるので、それに着いていくことは自分の状態を動かし続けるということと同義。
オタクよ、時代と寝ろ。新しい時代のエンタメ、新時代の技術、未踏の表現を取り込み続けろ。
 
 
いや、何が言いたいかっつーと、この前、運よくPS5買えたんでラチェットアンドクランクやったんですけど、これは間違いなく「時代と寝る」ゲームですよ。
 
ゲームの要素は「ルール」と「見せ方」の2つに分解されると常々思っていて、「ルール」の方は新しい発想を必要とするゲームシステムの領域で、「見せ方」の方はすでに発明されたゲームシステムをプレイヤーにどう見せるかの世界。
ゲームハードが新しくなった際は、従来できなかった表現が可能となるため、「見せ方」の方でイノベーションが起きるんですが、PS5のラチェクラはまさにその「見せ方」の部分で今トップレベルにアツいゲームですねこれ。
 
目まぐるしく展開される地形崩壊の中、高速でレールを走るラチェットを操作するのは、言ってみればディズニーのアトラクションを一人で独占して遊んでいるような感覚に近く、これが家で遊べることを神に感謝するレベルですが、考えてみれば「障害物が迫ってきて当たるとダメージを受けるので当たるまでにジャンプで避ける」というゲームのルール自体はスーパーマリオレベルなんですよね。すっげぇシンプル。誰でも遊べる。これが2021年のゲーム……生きている実感が得られる……。この感動、バイオショックを初めて遊んだとき水の表現に感激したときのあの気持ちに近い。
 
一方で、「ルール」の斬新性であれば普遍的な強さがありますが、PS5ラチェクラのように「見せ方」に強さのあるゲームは、時代と寝ない限りその最高の刺激は味わえないんですよね。
これが5年10年後になると当時は斬新だったPS5ラチェクラの「見せ方」はコモディティ化し、生きている実感くんは生を維持するための十分な刺激を獲得できず、自殺してしまうでしょう。
生きている実感くんがPS5ラチェット&クランクを遊ぶべきなのは、今このときをおいて他にない。
 
で、どうですよ。我々はこうして過ごしている日常で十分な刺激を獲得してると言えるのか。生きている実感は得られてる? 老後に耐えられる記憶の強度は持ってる?
「ハァハァ、俺に、俺に生きている実感をくれええええ!」と叫びながら禁断のブースト注射を打ってイッた目で主人公と対峙する若い兄ちゃん、あれこそがくたびれたオタクが行き着く姿であり、もっとも共感すべきなのは必ず勝利が約束された主人公なんかなのではなく、彼なのかもしれない。
 
遊べ、時代と寝るゲームを。
地盤沈下し続ける日常から自分の人生を守るには、記憶の強度を高めるしかないのだから。