当たり判定ゼロ

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自由を測るネトゲのものさし

うおおとにかく自由なネトゲ遊びてええええ!ってたまになるんですよ。なりません?
かつてUOを遊んでいた人々は「もう一度あの自由を体験したい」と、他のゲームにまでUOの幻影を追いかける「自由度の呪い」とでもいうような病気に罹っています。確かにUOは自由だった。武器がへたって来たので街角の職人に修理をお願いしたり、プレイヤーによって劇団が結成されて街角で演劇が催されていたり、他の人の服の染め物をしてあげたり、有志を募って宝の地図を掘りに行ったり、食べ物に毒を仕込んでギルドハウスに置いてみたり、死体をバラしてベンダーで売ってみたり。できることを挙げればキリがないゲームでした。 しかしキミたち自由自由とはいうけれど、一体何をもってして「自由である」というのか。「自由」とはどのような指標で測られるものなのか。自由を主張するからには、やはり肌感覚ではなく明確なものさしが必要なんじゃないかねキミィ、という話でありまして。 UOの自由さを表現するために出てくる例は、上の話でもそうですが、大体は他人との関係が含まれる話です。UOはネットゲームですから、醍醐味はその社会性にこそあるわけです。
そう、社会。その社会を研究するいわゆる社会科学と呼ばれる学問は色々ありますが、それらの学問で扱われる法律や経済がゲーム内でどのように位置付けられているかが、そのゲームにおいて形成される社会に影響を与え、プレイヤーが感じる「自由さ」と密にリンクするのです。具体的には、法律と経済が運営のコントロール下にあるか、ユーザーのコントロール下にあるかが自由度を左右すると考えられます。なお、ここでは三権分立を考慮する必要はないので、行政と司法は法律にくくって考えます。 たとえばUOに当てはめてみましょう。
法律のコントロールは、赤ネームという善悪が運営により予めシステムで規定されているものの、その他はユーザーのコントロール下にあると見ていいでしょう。盗みを働くのも自由。盗人を誅するのも自由。赤ネームになったところで、それを罰するのは運営ではなく結局ユーザー。初期の頃は詐欺行為すら自由で、悔しかったら殺してみろやの世界。PKKという警察機能もユーザー任せ。もし悪いことをしても赤ネームになることなく、評判や噂で「○○は10人くらい殺った」と流れ、それを立証する証人が現れ、PKKが誅するみたいなことになってたら、完全なユーザーコントロールと言えましょうが、さすがにそこまでではなくとも法律面はユーザー側のコントロール下と認められる程度には十分だと思われます。
経済のコントロールは、完全な自由経済が用意され、家まで取引できました。上述のように詐欺行為まで行うことができました。こちらは完全にユーザー側のコントロール下にあると認められます。
以上により、UOは法律、経済面ともにほぼユーザーのコントロール下に置かれていたため、ユーザーは自由を感じることができていたと言えます。 2つの要素の片方だけに自由が与えられているケースもあります。モゲマスのようなトレード機能を持った初期のソーシャルゲームがその類型にあたるでしょう。
法律のコントロールは運営にあり、ユーザーに与えられていません。「アイドルマスター討伐イベ」のような例外を除けば、どのような悪事が行われているかの可視化もされておらず、司法権は運営のみにあります。また、そもそも悪事を働くこと自体がシステム側で制限されており、「悪事を働くこと=システムを突破すること」というプレイヤー対システムの構造になってしまっています。
一方で、経済のコントロールはユーザーにあります。よく知っているモゲマスを例にあげると、フリトレの導入によりトレードチケットで取引回数が制限されるまでは完全な自由経済が実現されています。フリトレ導入後は、取引に多少の制約はあるものの、依然としてユーザー間での自由取引は保障されていますし、値決めは市場原理に依存しています。
これら初期ソシャゲは中程度の自由度を持つゲームと言えます。 2つの要素が運営のコントロール下にあるゲームもあります。最近のスマホゲームの多くがこの類型にあたるでしょう。
法律のコントロールは運営にあり、ユーザーに与えられていません。基本的に他人に悪事を働くことのできる設計にはなっていないため、いわゆるユーザー対ユーザーで揉める事件は基本的に起きず、原則的に各ユーザーは運営に対してアプローチしていくことになります。
経済のコントロールは運営にあり、ユーザーに与えられていません。ユーザー間の取引は行うことができず、原則的に各ユーザーは運営と取引を行います。
これらのゲームは自由度の低いゲームと言えます。 「誰が善悪を決め、罰するのか」「誰が経済活動を操作するか」
ネトゲにおいては、この2点をユーザー側に委譲するかどうかでそのゲームの自由さが形作られます。両方YESと答えられるならば、それはとても自由なゲームです。 法律・経済、この2つの要素により自由度を測るネトゲのものさしは、社会性のある全てのゲームのみならず、他の物事についても当てはめて考えられる汎用性のある指標です。 たとえば、ネコの集会について見てみましょう。
ネコの集会は、彼ら自身が作ったルールに基づいて開催されます。集会の参加自体も彼ら自身の意思に委ねられます。明文化された法はありませんが、彼らは彼ら自身が決めたルールにしたがって行動し、ルールに反したネコには罰が与えられます。ネコはきまぐれなので、場合によっては罰が与えられないこともあります。法律コントロールはユーザーの下にあり、自由に運用されていると言えます。
ネコの集会では、魚やネズミやビー玉などの自分のお宝を自由に分け与えたり、もらったりすることができます。そこでは自由な経済が認められており、経済のコントロールはユーザーの下にあると言えます。 したがってネコの集会は自由度が高いと判断されます。 人間の会社について見てみましょう。
人間の会社は、運営が決めたルールに従うことが義務付けられており、ルールを破ると運営により必ず罰が与えられ、場合によってはBANされることもあります。法律コントロールは運営の下にあると認められます。
人間の会社は、残業をした場合、対価を請求することができますが、しばしばそれは運営により取引が制限されることがあります。経済コントロールは運営の下にあると認められます。 したがって人間の会社は自由度が低いと判断されます。 なぜ人生はクソゲーと言われるのかおわかりいただけたでしょうか。
このものさしはとても便利な道具なので、ぜひ色々なものに当てはめて使ってみてください。