当たり判定ゼロ

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言葉のないゲーム

先日、XBLAで『Portal』をダウンロードして遊んだ。驚いたことに『Portal』に言葉はなかった。知性上のやんごとない理由のため英語を解さない私であるが、『Portal』は英語版でありながら何の支障もなく楽しむことができたゲームだ。元々BGMのないゲームであるから、理解できない言葉の羅列は快適な浮遊感のある環境音楽となった。上司や先生の小言に耐え忍ばんとするならば、日本語を忘れることが最適なソリューションだ。その時私たちは日本語の本当の美しさを知ることができるだろう。

暮らしの中で、言葉がポジティブな展開をもたらすことは少ない。警官に「ちょっといいですか?」と声をかけられると怖い。新聞の勧誘などが来ると泣きたくなる。電話は面倒ごとを押し付けるためだけにかかってくる。そして、これらをすべて解決する魔法の言葉を、私たちは薄々認識している。
「ワタシ、ニホンゴワカリマセ~ン」

中途半端な意志疎通がココロの安定に楔を打つ。最初からそんなものがなければ、ちょっとナンパをしなかったくらいで「要は勇気がないんでしょ?」などという強迫的な煽りを受けることもない。鉄仮面を被った暮らしこそが人を独立せしめる。

ゲームは元来、人との意思疎通の少ない遊びだった。しかし犬コロみたいな宇宙人が言うようにエントロピーは増大していくもので、ゲームの情報量も漸増した。人とゲームの関係性が濃度を増すと、ゲームの側からチュートリアルという形で関係の構築を求めてくるようになった。なんて不適切な関係!

言葉のないゲームが心を動かすのはこういうところだ。お互いお仕着せな価値観を交換することもなく、ただ微小な情報量を淡々と交換して、時間が来たら終わる。なんて美しい関係性なんだろう。しかし、これじゃ完全に風俗だ!おかしい!私が求めていたゲームとの関係性はそんな生っちょろいものじゃなかった!おかしい!言葉なんてなくなれ!最初から布団被って寝てるのが一番だったんだ!!

そうして神はお怒りになられ、世界から言葉は失われた。通信手段をなくした人々は関係性を維持できず、社会は失われた。しかし一方で争いもなくなり、平和な世界が訪れた。

ところで、冒頭の『Portal』において、プレイヤーを視認すると攻撃してくるセキュリティタレットが登場する。このゲームにおいて、タレットを撃破する必要があるときはタレットの後ろからそっと近づき、持ち上げ、転がす。「アー!アー!アー!」タレットは悲鳴をあげて床をのた打ち回り、やがて動きを止める。そのとき、はたと気がついた。

たとえ言葉がなくとも悲鳴は消えない。
いけない!奴らがこれに気がついたら!!

「ア!ア!ア!アー! アー!ア!  ア!ア! ア!ア!ア! ア!アー!ア! ア!アー!アー!ア! ア!ア! ア!アー!ア!」
「アー!アー!アー!ア! ア!ア!アー! アー!ア ア!ア! ア!アー!ア!」

遅かった。モールス信号だ。
新しい言葉が、そして文明が生まれた。